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飯田簡易裁判所 昭和31年(ハ)87号 判決 1957年4月06日

飯田市本町一丁目二番地

原告

飯田信用金庫

右代表者理事

青島愛二

右訴訟代理人弁護士

上松貞夫

同市東和町二丁目四十四番地

被告

前島筆子

右訴訟代理人弁護士

前沢英文

右当事者間の約束手形金請求事件について、次のとおり判決する。

主文

被告は原告に対し、金五万円及びこれに対する昭和三十一年七月七日以降支払済までの年六分の割合による金員の支払をせよ。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  請求の趣旨

主文同旨の判決及び仮執行の宣言を求める。

第二  右に対する答弁

請求棄却の判決を求める。

第三  請求の原因

額面金五万円、満期昭和三十一年六月二十五日、支払地振出地飯田市、支払場所飯田信用金庫、振出人前島卓雄、振出日昭和三十一年五月十日、受取人原告、保証人被告なる記載ある約束手形に基く原告の被告に対する手形金請求権及び訴状送達の翌日である昭和三十一年七月七日以降支払済まで商法所定の年六分の割合による遅延損害金の支払請求権。

第四  請求を理由あらしめる原告の事実主張

訴外前島卓雄(以下単に卓雄と称する。)は、昭和三十一年五月十日、原告に宛てて右要件の記載ある約束手形を振り出し、原告は現にこれを所持しているが、被告は、同日右手形上に、連帯保証人名下に氏名を自書し、捺印して、振出人たる卓雄を手形保証したものである。

第五  右に対する答弁及び被告の事実主張。

(一)  卓雄の右手形振出の事実は知らない。被告の右手形保証の事実は否認する。本件手形上の被告名義の署名(記名部分と印影とを含めていう。以下同じ。)は偽造である。

(二)  卓雄は被告の弟であるが、被告とは世帯は別で、老父母、妻子と共に飯田市小伝馬町で木炭業を営んでいたもので、営業不振で借財も累んだのに家業を顧みず、老父母をして絶望の極四月十日自殺せしめるに至り、自身も五月十一日夜数百万円の負債を残していわゆる夜逃げをしてしまつたものである。

(三)  卓雄夜逃げ後、被告名義の保証のある書類を持つ債権者が本件原告の外にも五名現われ、六口会計では金五十八万円にも達するが、姉とはいえ同市東和町で別個に料亭を営んでいた被告には全く覚えのないものばかりで、六人の債権者はいずれも被告とは全く面識もない間柄であり、書類における被告名義の署名も、記名部分は被告の自署でないのに、それらしく似せた形跡があり、印影は、被告の実印に酷似しているが、被告の関知せぬものがかくも多数存在するところから見て印鑑自体が卓雄に偽造され、それが使用されたものと推測されるのであつて、本件手形保証の署名もその一つである。

(四)  債権者大平昌美に対しては、被告所有名義の家屋に金二十万円の根抵当権が設定されているが、これも卓雄の文書偽造に由るものであつて、三月二十八日この事実を覚知した被告は、大平に抗議する一方、同月三十日飯田市役所に改印届をしたのであつて、こういう行為に出ていた被告が改印前の実印を使つて、本件手形保証などをする筈がない。結局被告名義の署名は偽造であるから、被告には本件債務を負うべき理由がない。

第六  右に対する答弁及び原告の予備的事実主張

(一)  右(二)の事実は認める。その他は否認する。(四)に対し、三月三十日の改印の事実は認めるが、被告は改印届の直前である三月二十八日訴外細目喜男のため連帯保証人となつて実印を押捺している事実があり、改印は為にするものなることを疑わせる。

(二)  かりに本件手形上の被告署名中記名部分が被告の自署にかかるものでなく、その名下の印影も被告の関知せぬものであつたとしても、その印影が被告の実印(改印届前のものを指す。以下同じ。)の印影であることは疑がなく、従つて被告は卓雄に実印を交付したものであつて、これは何等かの代理権授与がなされたことを意味する。そして本件は書替手形であつて、書替前の手形振出の時には、卓雄は、原告橋北支店支店長の面前で被告に電話をかけて保証について了解を得た事実があり、本件手形への書替に際しても、被告の捺印を得るため一旦支店の建物を出て相当時間後に捺印を取つて戻つている。殊に被告は卓雄の姉であり、かかる状況下においては、かりに卓雄が被告の実印を使用したことが代理権の範囲外の行為であつたとしても、原告方としては、卓雄が被告の署名(記名捺印)の代行をする権限ありと信ずべき正当な理由があつたものであるから、民法第百十条により、被告は卓雄のなした被告名義の手形保証について責に任ずべきものである。

(三)  かりに右の主張が容れられず、卓雄の行為は全く権限のないものであつたとしても、被告はこれを追認したものである。即ち、被告は、昭和三十一年五月十五日訴外佐々木新太郎に対して、卓雄が被告に無断でこの行為をなしたが、被告の手形債務は有効に存在する旨を自ら確認して述べた事実があり、これは卓雄の行為の相手方である原告に対してなされたものでなくとも民法第百十三条にいわゆる追認というを妨げないから、被告はこの追認により、本件手形債務につき責に任ずべきものである。

第七  証拠関係(省略)

理由

一、甲第一号証(本件約束手形)は成立に争があるが、被告名義の保証の署名を除く部分は、池田証人の証言によつてその成立を認めることができ、右証言及び右甲号証によつて原告主張の要件を具えた本件手形が振り出されたことが認められる。原告がその所持人であることには別に争はないから、結局原告の本訴請求の当否は、右被告名義の保証の署名の有効性如何にかかることになる。

二、原告は右署名の真正な成立を主張しているので、この点から判断することとし、

(一)  先ず記名部分が自署であるかどうかについて考察する。右甲第一号証の被告署名中の記名部分と対照翻文書における被告本人の自署とを比較し、これに片桐鑑定人の鑑定の結果並びに乙第一号証(土屋博志作成の鑑定書で、同証人の証言によつて成立を認める。)に被告本人の供述(第二回)及び土屋証人の証言を参酌した結果を総合して考え合せると、結局甲第一号証の被告記名部分は被告本人の自署に酷似しているが、自署ではないと認めるのを相当とし、大西鑑定人の鑑定の結果中これに関する部分は、これに反対の結論を示すが、心証を左右するに足りない。

(二)  然し、記名捺印と見れば、なお印影を問題にする余地があるわけなので、次に、印影が被告実印の印影であるかどうかについて考察する。被告訴訟代理人は、当初両印影が一致することを認めて卓雄が印鑑を盗用したと主張したのであるが、後に事実摘示第五の(三)記載のように主張を訂正したものである。右訂正自体については特に当事者間に争わないが、このような訂正がなされたこと自体は一の徴表たるを妨げぬものであるし、積極的に両印影の一致を主張する大西鑑定人による鑑定の結果――この鑑定結果は、前記のように、記名部分については採用し得ないのであるが、印影についての判断は記名部分とは全く独立し、記名部分についての結論の当否に影響されるものでないことは明らかである。――に対して被告側として反証をあげるところもなく、唯被告の関知しない偽造の印影が多数存するから、印鑑自体の偽造があつたのであろうとの推測をなすに止まつているのである。そして右の推測の前提たる事実については、乙第五〇六号証(それぞれ別件前島筆子及び小沢生の証人調書で、いずれも成立に争がない。)同第十三号証(佐々木新太郎宛約束手形で、後記甲第五号証の三によつて成立を認める。)等によつて、本件以外にも被告名義の印影による卓雄の債務の保証が幾つか存したことを認めることができるが、それらがすべて被告の全然関知しないものであつたとの右乙第五号証や被告本人の第一回供述は必ずしも措信し得ず、その他この心証を得るに足る証拠はなく、従つて右の事実には、大西鑑定を打ち破つて被告主張のように印鑑自体の偽造があつたと推断せしめるほどの力はない。結局本件印影は被告の実印の押捺によつて得られたものと認められる。そこでこの押捺が被告の意思に基いてなされたものであれば、署名は記名捺印としては真正に成立したものということができる。

(三)  よつて、進んで捺印が真正かどうかについて証拠を案ずるに、

(1)  被告が卓雄の夜逃げした翌朝、卓雄宅現場で新聞記者に対し、卓雄の借金を保証した分が二十六万円あると述べた事実は、甲第五号証の二(別件中村邦利の証人調書で成立に争がない。)及び右により成立を認める甲第三号証(夜逃げを報道した新聞記事)によつて認定できる(被告本人の第一回供述及び前出乙第五号証中右認定に反する部分は措信できない。)が、右二十六万円が大平昌美に対する金二十万円以外にどの債権者に対する債務を意味したものかは、全証拠によるも結論を下し得ないから、本件債務について、特に原告に有利な徴表とはいい難い。

(2)訴外佐々木新太郡に対して、被告が本件債務を認めたということは、事実とすれば、原告に有利な徴表であるが、甲第五号証の三(別件佐々木新太郎の証人調書で成立に争がない。)の内容は、前出乙第五・六号証及び被告本人の第一回供述に徴して必ずしもそのまま採用し得ず、佐々木歌子証人の証言を考え合せても、心証を定めるに足りない。

(3)一方、被告が三月三十日改印した事実は当事者間に争がなく、改印に至るまでの細かい事情は、乙第三号証(不動産登記簿閲覧申請書で成立に争がない。)、第五号証(前出)、第十二号証(改印届で成立に争がない。)及び同第十・十一号証(それぞれ別件伊藤照子及び牧島ことみの証人調書でいずれも成立に争がない。)によつて認められ、このことは被告側に甚だ有利な徴表のようであるが、甲第四号証の一・二(それぞれ訴外細田喜男に対する被告の連帯保証確約書及び右訴外人の借用金証書で、いずれも成立に争がない。)の作成日附が右乙第三号証と同じ三月二十八日であり、右証における被告の署名捺印は、被告本人の第一回供述により被告が自署し、自ら本件で問題の被告の実印を押捺したものであると認められる事実を考え合わせると、――前出乙第十二号証に「新調」を理由としてあることはともあれ――。右被告本人の第一回供述及び乙第五号証において改印の理由としてあげられた「紛失」は甚だ措信し難く、却つて、卓雄と被告とは世帯が別であつたこと当事者間に争がなく、従つて同一世帯を営んでいる場合と異つて、被告実印の盗用は決して容易でない筈であることや、本件において、この実印が被告側から提出されたこと等に徴すれば、右改印届に不自然な作為の存することが感ぜられる。この事実及び前記認定の印影の同一性や乙第七・八号証(それぞれ別件村松志郎及び三浦宗直の証人調書で、いずれも成立に争がない。)を前顕各証拠に総合して考察すると、右のような被告の行動は、元来法律的観念に乏しい女性に有り勝ちな放漫さと且つは肉親の情誼とから、まさか夜逃げされるとも思わず、比較的安易な気持で自己の実印を卓雄に渡してその使用を許した被告が、卓雄にこれを冒用せられ、登記簿上は被告名義であるが、実際には三浦宗直の所有に属した家屋にまで予期せぬ魔手の及んだことを知つて、三浦に対する義理からも、また自分の上に現実に降りかかつて来た利害からも黙し得ず、ここに事態に対処するために改印その他の手段をとるに至つたものとして理解するのが一番無理がないと考えられる。従つて、被告主張のように、改印の事実を以て直ちに本件手形上の被告の捺印の有効性に対する否定的徴表と見るわけにはゆかない。

(4)然し逆に右の事実が本件における被告署名の真正を推測させるものでないことも、いうをまたない。本件手形の書替前のものは三月三十日に振り出され、これにも手形上被告の保証がなされていたことを池田証人の証言で認めることができるが、三月三十日は正に前記改印届のなされた日であり、被告の当日の行動について、双方の相反する証拠のいずれを採用するかはさておき、この日時の一致自体既に疑念を生ぜしめるに足る。しかも、本件手形の振出は、前出乙第十三号証などと共に、遙か下つて五月の夜逃げ直前の頃のことなのである。

(四)この様に見て来ると、双方に有利な徴表も不利な証拠もあつて、これらを総合しても遂に確たる心証を得難いから、捺印が被告の意思に基いてなされたかどうかについては、この点に立証の責任ある原告の不利に解する外はない。

(五)捺印が被告の意思に基くものでない以上、民事訴訟法第三百二十六条の推定の効果も発生するに由ない。結局、被告署名は、これを記名捺印と解しても、真正に成立したとは認められないから、その真正な成立を前提として被告に手形保証債務の履行を求める原告の請求は理由なしといわざるを得ない。

三、そこで、進んで、原告の第一の予備的主張の当否について判断する。

(一)本件手形における被告署名中記名部分は、前節(一)認定のように被告の関知しなかつたものであるが、乙第一号証、第二号証(前島卓雄作成の葉書で、被告本人第二回供述によつて成立を認める。)並びに土屋証人の証言及び片桐鑑定人の鑑定結果から、これが卓雄の筆跡であり、しかも被告本人の筆跡に似せて書かれたものであることが認められる。

(二)前節(二)認定のように、印影は被告の実印によるものである。前示本件の経緯の下にこの事実と前段の結論とを考え合せると、印影は、卓雄が本件実印を占有し、これを押捺することによつて成立したものと推認するのが相当である。

(三)然し、前節(四)に示したように、捺印自体は被告の意思に基いたものとは認められないのであるから、前段の事実は、被告の実印を占有していた卓雄が、その権限なしに無断で被告の記名捺印の代行をし、手形上に被告名義の手形行為を成立せしめるに至つたことをも語るものといわなければならない。

(四)ところで、卓雄が実印を占有していたのは、盗用によるものでなく、むしろ被告が実印を渡してその使用を許したものと認められることは、前節(三)(3)に示したとおりであるが、このことから、被告が卓雄に対して何等かの代理権を与えていたことを推認するのは、さして困難でない。そして、当事者間に争のない卓雄の経歴(事実摘示第五の(二))や裁判所に顕著な実印なるものの坊間における使用価値などを前認定の諸事実に考え合せると、この代理権は卓雄がある借金をするに際して、被告保証名義の署名代行をなさしめるためであつたと推認することができる。

(五)前二段の結論を総合すれば、卓雄は被告から与えられた当該の代理権を超えて、本件手形における無権限の署名代行をなしたわけであり、而して民法第百十条の適用においては、行為時に現存する代理権でなくとも、嘗つて存在した代理権の範囲を超えた事実があれば足ると解せられるので、本件の場合、同条の適用を見る行為があつたということができる。そこでその行為の相手方である原告において同条にいわゆる「正当の理由」を有したかどうかが次の問題となる。

(六)池田証人の証言によれば、書替前の手形にも、手形上被告の保証がなされていたのであるが、卓雄が振出に際して、池田支店長の前で、被告宛に架電して、手形保証について了解を得たもののように装つたこと(これが真実でなかつたことは、被告本人の第一回供述によつて認められる。)、そのため原告側では被告名義の署名を信用したこと、本件手形への書替の時も、暫らく支店の建物を離れて後、被告名義の署名を得て戻つて来たので、原告側としては書替前のものと印影を照合するのみで満足したことが認められる。本件実印の印影は「前島筆子」の四字を二列に割つて刻したもので、姓のみ刻んをだいわゆる三文判ではないことは一見して明らかで、このことや被告と卓雄との近親関係(卓雄は池田支店長に対して被告を義姉であると告げていたようであるがこれは認定の結論に影響するほどのことではない。)を右の認定事実に総合して考えると、署名についての調査に疎漏の点がなかつたとはいえないが、かかる状況下の手形書替において、原告が取つた態度を強く咎めて、正当の理由の存在を否定するほどの過失と見るのは、酷に失すると考えられる。

(七)ただこの場合、原告としては、現実に被告の行為ありと信じたのであつて、卓雄による署名の代行を認識した上で、その権限ありと信じた訳ではなかつたのであるから、民法第百十条の文言をそのままに適用することはできないわけである。然し、前記のように、本件手形行為は実際には代理権超越の状況下になされたのであるから、これを原告側が有効な手形行為と信じた点に着眼すれば、本件の場合同条の法意を類推適用するのが妥当であろう。

(八)民法第百十条を以て律すれば、前記(六)のような事情は、卓雄による本件手形行為について原告がその有効性を信ずるのに「正当な理由」が存したということを意味するから、結局被告は卓雄の右行為についてその責に任ずべきものである。

四、よつて原告のその余の主張に触れるまでもなく、被告は原告に対して、前出甲第一号証の記載どおりの手形保証債務を履行する義務がある。

五、被告に対して手形金五万円及び訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和三十一年七月七日以降支払済まで商法所定の年六分の割合による金員の支払を求める原告の請求は、かくして理由があるからこれを認容し、訴訟費用は敗訴者である被告の負担とし、仮執行の宣言は附さぬこととして、主文のとおり判決する。

飯田簡易裁判所

裁判官 倉田卓次

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